遠雷

見た映画の感想など

ミッドサマー感想。

素晴らしい感想が数多出ている中、どうしても話したいことがあるので聞いてほしい。

好奇心と臆病の狭間で揺れつつ、友人に背を押される形で一緒に見た。消耗するだろうとは予想していたものの、想像以上にしんどくなってしまい、帰り際まで心配をされる羽目になった。奇しくもその日は季節外れの雪が降り、とても寒い日だった。まるでダニーの最悪の日のように。

この物語は主人公であるダニーが、妹の無理心中により天涯孤独になるところから始まる。恋人のクリスチャンとはその少し前から関係は冷めつつあるものの、他に縋れるところがないダニーは、不安定な状態のまま過ごすしかない。そんな中、クリスチャンが友人たちと共にスウェーデンの辺境の村で開催される夏至祭に行く計画を立てていることを知る。歓迎されていないことを知りつつ、彼女はその旅に着いていく。

飛行機を降り、車で向かう最中にぐるりと反転する天地の演出に、鳩尾のあたりがムカムカしたのを覚えている。始まってしまった、後戻りはできない、無理になったら外に出ようと覚悟した。今思うとかなり臆病風に吹かれていたと思う。
村の掟である凄惨な儀式、取り乱す部外者と呆然とする部外者の温度差。それでも祝祭は始まりを告げただけ、太陽の沈まない日々に事態は終幕まで転がり始める。

フラッシュバックの見せ方、悪夢の反復、混ざる視界だけで船酔いのような心地になる。映画の始終どこかが揺れていたり、不協和音が流れる演出は流石としか言いようがない。心中、止めてくれ後生だという気持ちでハンカチを強く握り締めた。アリアスター監督はトラウマを思い出させる演出が抜群に上手い。
慟哭も悲鳴も、善悪も正誤も、何もかもが足元から崩されるような心地だった。

なにが恐ろしいか。
それはこの不安定に構築された世界の中で、ホルガ村の住民たちだけが安定しているからだ。信仰するものに固く守られた彼らは、この村が与えてくれる恩恵、規律こそが祝福だと信じて疑わない。例え一瞬の感情の綻びが出ても、全員が共有することで全体性の一部として取り込んでしまう。共同体として生きる彼らに個は必要なく、世界のすべてがここで完結してしまっているのだ。
これは恐ろしい幸福と酩酊をもたらすものだと思う。

あの村はヤバい、なんで気づかないんだ、おかしい、あの住民たちが全て悪いという感想もチラホラ見たが、とてもではないがそんな風には思えなかった。
なぜならば、私も数年前まで似たような集団に属していた経験があるからだ。
そこは男尊女卑思想とハラスメントが当然のように横行する場所で、トップによる罵倒は当たり前、集団の前で詰られることも、些末なことを重罪のように断罪されることもあった。
学生ということもあり、見込みのあるやつは厳しく律するとの名目の下、戯れのように投げつけられる罵詈雑言。ヘトヘトになって帰る頃にOBから呼び止められ「今日はお話していただいて良かったわね!」「陰気な顔してちゃダメよ、爽やかな顔でいないと!」と朗らかに言われる。全てはトップの心の安寧と幸福のために構築されていく時間。ある日、トップの切りたての髪の毛を大事に受け取る付き人の姿を、ただただ冷めた心地で眺めていた。それこそが名誉なのだな、あれがあれば私も楽になれるかもしれないのに、と思いながら。

なにかの悪夢だと言ってくれた方がまだマシだろう。
逃げ出したい逃げ出したいと願いながらも、「お前がいなくなったら後輩の誰かを生贄にするからな」と言外に与えられ続ける圧力に、逃げたところでどうせこれ以上酷いことになるという確信に、逃げ出すことさえ出来なかった。
違和感を感じつつ、そこから強いアクションを取れないダニーやクリスチャンの姿に、過去の私の姿がダブって見え、劇場で冷や汗をかきながら足が震えた。無意識だった。身体の方が強く記憶していたのだ。

結局集団の違和感に耐えきれず、環境の変化に便乗した別離を選択し、今は平穏に暮らしている。いまだにあのまま過ごしていたらという思いがよぎる度、背筋が寒くなる。
ただ私が疲弊していた時から、あの場でしか自己肯定感を保てない人たちがいたのは事実である。あの異様な空間だからこそ、赦されていると感じている人は少なくない。なぜならば、その場にいた人たちから投げかけられる言葉は全て善意に根差していたからだ。

彼らを招待したペレは、始終穏やかで親切なままだった。何を言っていても。作中で唯一ダニーの心情に寄り添い、自分も同じだと話す。
それは彼女にとって、長い長い渇きの末に、ようやく得られた救いだったのではないだろうか。

燃え盛る炎を見つめながら笑う彼女は“個”から脱出し、救済された。そして永劫の共同体の中で微笑み続けるのかもしれない。それを不幸だと断ずるだけの根拠を私は持ち得ない。

 

祝祭は続く、どこかで、いまも。