遠雷

見た映画の感想など

ブラックホークダウン感想。

 

化け物みたいな戦争映画だった。

描写の緻密さに息を呑むし、痛みと人物描写が破格。恐ろしい速度でこちらへ向かってくる緊迫に食い千切られるかと思った。理不尽と不条理、残酷さを前にして、人が動く理由のシンプルさに胸が詰まる。

仲間が負傷した瞬間すぐさま救助に向かう姿に、彼らは厳しい訓練を受けてきた兵士であることがよくわかる。指揮系統の遵守が生存率を上げることを知っている集団の強さを先に示されることで、状況が暗転していくことへの不安感がひたひたと迫ってくる。背筋に嫌な汗が流れる。銃火器を大量に持つ民兵との戦いは、なし崩しのように泥沼化していく。
衛兵が必死で生かそうともがくシーン、衛生面も薬も何もかもが足りない中で、ただただ「生きろ」と手を尽くす。痛みに跳ねる身体を全員が抑え、「あと少しだ」「もうすぐくる」「その言葉は自分で言えよ」と代わる代わる声をかけ続ける。誰も諦めない、諦めてはならない。そのタフさが彼らに地獄を見せる。

死んだ兵士達は、官民共にその場に打ち崩れる。五体満足ではないその姿が呻く。仕方ない、生きている方が大事だと目を瞑りたくなる。これは戦争なのだと考えることを頭が拒否する。
その度に「誰も残すな、全員連れて帰れ」と、幾度となく繰り返される言葉に涙が出そうになる。彼らは肉塊ではなく、確かに人間なのだ。それを誰よりも知っている司令官の姿に頭が下がる。上に立つ人間に必要なのは、吐き棄てられる下の者の痛みをどれだけ拾えるかだと思う。それを違いなく示す一挙一動は、信頼を寄せられる人の有り様を見せてくれる。

 

社会の根本的なところを突き詰めていくと、全て人の営みに帰結していく。兵士達が溺れるくらい死んだ場所をこれからも人は歩いていくし、子供たちは瓦礫の山で遊ぶ。日常と非日常は切り離されることなく地続きで、あの日の惨劇も過ぎてしまえば、過去と括られる。

それでもあの日を忘れまいとすることに意味も意義もあると信じたい。それは戦場で亡くした命への弔いであり、自身の生の肯定に他ならない。遠ざかるほど事実は薄れるけれど、近過ぎれば焼かれてしまうのではないかとさえ思う。信じたい気持ちさえもが痛い。
戦闘の最中に「“もし”」と苦悩を滲ませる仲間に対し、「ここで考えるな、終わった後に嫌というほど時間がある」と言った彼の目は、恐ろしく凪いではいなかっただろうか。その経験があったかどうかなどは、些細なことかもしれない。頭を撃ち抜きたくなるような夜があったかもしれない。それでもどうか生きることを諦めないで欲しいと、身勝手なことを願わずにはいられなかった。

 

「英雄になりたい訳じゃない、結果的にそうなるだけで」
こんなにしんどい台詞が他にあるのか……。銃創だらけの顔で、かつての友の棺の前で独白する彼は、いつか自分もこうなるかもしれないことを承知の上で、再び戦場へ戻るのだ。
虚栄心で戦えるかよ、そんなことで戦場へ戻れるかよ。ここでしか生きられない訳ではなく、生きるためにあの場所へ行くしかない人達の多さに言葉を失くす。

“負傷者”と“死亡者”という言葉に漂白されて、被害に対する意識が遠くなる。戦場という名の対岸の火事は、明るい光にしか見えない。ともすれば希望と名付けてしまいそうなほど。一行の報告書として我々の元に届くまでに、一体何人の人々が大切な人を喪ったのだろう。
私の世界と遠からず地続きであることを、緩慢に忘れてしまうことが恐ろしい。

 

戦争映画を見るたびに、それを起こす人々はペン先しか動かさないのに、その決定を止めることのできない人達が塵芥のように人生を硝煙と砲弾の嵐へ突き落とされる事実に胸が潰れそうになる……。
だからこそこういう映画が必要とされるのだろうけど……なんて……なんて不毛なことをしているんだ……。
先日公開されたウィンストンチャーチル(原題:ダークアワー)を観た時に、民衆議員共々戦う意志を固め、熱狂したシーンで寒気がしたことを思い出した。

犠牲は常に蓋をされて日の目を見ないからこそ、犠牲なのだろう。誇りのために死ぬことに、未だうまく頷けずにいる。