トップガンマーヴェリック感想。
久しぶりに映画、そして映画館への熱を取り戻すのにふさわしい作品は?と聞かれたらこう答えるだろう。『トップガンマーヴェリック』を観よと!
些か誇張気味ではあるが、およそ2年ぶりに映画館で観た作品としては満点をつけたい気持ちでこれを書いている。
数多の勲章を引っ提げて、上官へ楯突き続けるマーヴェリックは、大変不器用な人間だ。彼の功績を鑑みれば、少なくとも後2つほど上の階級でなければおかしい。
ただ彼は飛行機乗りとして、いや“飛行機乗り”としてしか生きられないのだから仕方がない。彼の古くからの知己は、彼以上に彼のこの本質を知っていたのだろう。
古巣への呼び戻しは彼にとって吉か凶か。
生存確率が低い任務で、彼に飛べではなく“お前のように飛ばせろ”と上は言う。若き精鋭たちの中にかつて背を任せた親友の息子、射抜くように彼を睨む。
“俺を信じろ”と言ったマーヴェリックに反発するルースター。それを力技で信じざるを得ない状況へひっくり返すところが彼が彼たる所以だろう。自身の技量へ自負があるものほど、目の当たりにした彼の飛行にぐうの音も出まい。圧倒的な実力差は、反発を超えて信頼へ転換される。
それでも過去から脱しきれないルースターへ、幾度となく彼はこの言葉をかける。
“考えるな動け”
これこそが彼の生き方そのものだろう。
無謀さは運命が愛した。墜ちないイカロス。
溶けぬ蝋は、彼を少しでも長く空へと願う人たちの執着だろう。彼の空の姿を見れば、賭けずにはいられない。
F14を飛ばした瞬間、あの頃が甦っただろう。レーダーに現れたF14に、誰よりも早く“マーヴェリックだ”と気づいたサイクロンはそこへ何を見ただろう。
無線が繋がらないと叫ぶルースターへ「それはお前の親父がやっていたから知らない」と返すマーヴェリック。その返事までの長き日々を思う。
彼は空で生き続けるだろう。
パイロットを必要とされなくなる、いや必要とされなくなってからもきっと。
幸運の女神の前髪で空へと縫い止められた男よ。
私も“その顔は好きじゃない”
ミッドサマー感想。
素晴らしい感想が数多出ている中、どうしても話したいことがあるので聞いてほしい。
好奇心と臆病の狭間で揺れつつ、友人に背を押される形で一緒に見た。消耗するだろうとは予想していたものの、想像以上にしんどくなってしまい、帰り際まで心配をされる羽目になった。奇しくもその日は季節外れの雪が降り、とても寒い日だった。まるでダニーの最悪の日のように。
この物語は主人公であるダニーが、妹の無理心中により天涯孤独になるところから始まる。恋人のクリスチャンとはその少し前から関係は冷めつつあるものの、他に縋れるところがないダニーは、不安定な状態のまま過ごすしかない。そんな中、クリスチャンが友人たちと共にスウェーデンの辺境の村で開催される夏至祭に行く計画を立てていることを知る。歓迎されていないことを知りつつ、彼女はその旅に着いていく。
飛行機を降り、車で向かう最中にぐるりと反転する天地の演出に、鳩尾のあたりがムカムカしたのを覚えている。始まってしまった、後戻りはできない、無理になったら外に出ようと覚悟した。今思うとかなり臆病風に吹かれていたと思う。
村の掟である凄惨な儀式、取り乱す部外者と呆然とする部外者の温度差。それでも祝祭は始まりを告げただけ、太陽の沈まない日々に事態は終幕まで転がり始める。
フラッシュバックの見せ方、悪夢の反復、混ざる視界だけで船酔いのような心地になる。映画の始終どこかが揺れていたり、不協和音が流れる演出は流石としか言いようがない。心中、止めてくれ後生だという気持ちでハンカチを強く握り締めた。アリアスター監督はトラウマを思い出させる演出が抜群に上手い。
慟哭も悲鳴も、善悪も正誤も、何もかもが足元から崩されるような心地だった。
なにが恐ろしいか。
それはこの不安定に構築された世界の中で、ホルガ村の住民たちだけが安定しているからだ。信仰するものに固く守られた彼らは、この村が与えてくれる恩恵、規律こそが祝福だと信じて疑わない。例え一瞬の感情の綻びが出ても、全員が共有することで全体性の一部として取り込んでしまう。共同体として生きる彼らに個は必要なく、世界のすべてがここで完結してしまっているのだ。
これは恐ろしい幸福と酩酊をもたらすものだと思う。
あの村はヤバい、なんで気づかないんだ、おかしい、あの住民たちが全て悪いという感想もチラホラ見たが、とてもではないがそんな風には思えなかった。
なぜならば、私も数年前まで似たような集団に属していた経験があるからだ。
そこは男尊女卑思想とハラスメントが当然のように横行する場所で、トップによる罵倒は当たり前、集団の前で詰られることも、些末なことを重罪のように断罪されることもあった。
学生ということもあり、見込みのあるやつは厳しく律するとの名目の下、戯れのように投げつけられる罵詈雑言。ヘトヘトになって帰る頃にOBから呼び止められ「今日はお話していただいて良かったわね!」「陰気な顔してちゃダメよ、爽やかな顔でいないと!」と朗らかに言われる。全てはトップの心の安寧と幸福のために構築されていく時間。ある日、トップの切りたての髪の毛を大事に受け取る付き人の姿を、ただただ冷めた心地で眺めていた。それこそが名誉なのだな、あれがあれば私も楽になれるかもしれないのに、と思いながら。
なにかの悪夢だと言ってくれた方がまだマシだろう。
逃げ出したい逃げ出したいと願いながらも、「お前がいなくなったら後輩の誰かを生贄にするからな」と言外に与えられ続ける圧力に、逃げたところでどうせこれ以上酷いことになるという確信に、逃げ出すことさえ出来なかった。
違和感を感じつつ、そこから強いアクションを取れないダニーやクリスチャンの姿に、過去の私の姿がダブって見え、劇場で冷や汗をかきながら足が震えた。無意識だった。身体の方が強く記憶していたのだ。
結局集団の違和感に耐えきれず、環境の変化に便乗した別離を選択し、今は平穏に暮らしている。いまだにあのまま過ごしていたらという思いがよぎる度、背筋が寒くなる。
ただ私が疲弊していた時から、あの場でしか自己肯定感を保てない人たちがいたのは事実である。あの異様な空間だからこそ、赦されていると感じている人は少なくない。なぜならば、その場にいた人たちから投げかけられる言葉は全て善意に根差していたからだ。
彼らを招待したペレは、始終穏やかで親切なままだった。何を言っていても。作中で唯一ダニーの心情に寄り添い、自分も同じだと話す。
それは彼女にとって、長い長い渇きの末に、ようやく得られた救いだったのではないだろうか。
燃え盛る炎を見つめながら笑う彼女は“個”から脱出し、救済された。そして永劫の共同体の中で微笑み続けるのかもしれない。それを不幸だと断ずるだけの根拠を私は持ち得ない。
祝祭は続く、どこかで、いまも。
アラジン感想。
「見たことない世界を見せてあげるよ」と手を引かれた先が、最高だった話をさせて欲しい。
実写版!!!アラジン!!!期待を大きく上回って2時間魔法の世界に旅立ったあと、晴れ晴れとした気持ちでこれを書いている。元々アニメや舞台から縁遠く、ほぼほぼ通してみたアラジンがこの作品なので、その点はご留意いただきたい。音楽と映像の美しさは圧巻で、これぞ天下のディズニー!底力をありありと感じた。
アラジンの成功譚に見せかけて、その実大変王道なジャスミンのサクセスストーリーかつ、アラジンのシンデレラストーリーだった。そこにジーニーの異国情緒をスパイスとしてひとつまみ。この解釈はいまの時代性をよく汲んでいるし、個人的にはとても良い傾向のように思う。なぜならば数が圧倒的に少ないので。古典作品の解釈の幅が広がり、世界が深まるのは大変喜ばしい。
さて作中、コソ泥で生計を立てるアラジンがふとした折々に「本当の僕を見つけて」と歌う。彼が心底欲しているのはこれまでプリンセスが願ってきた「真実の愛」だ。そのために迷い、アプローチし、悩む姿は等身大の若き青年であり、微笑ましくむず痒い。対するジャスミンは城を抜け出し、市井の人々の暮らしを垣間見、苦しむ貧民に心を痛め、より良い国の有り様を考える、心優しき若き君主として登場する。(もちろん最初はなかなかの世間知らずだ)
いっそ対称的な彼らだが、「自分の望みは恐らく叶わない(叶えるのが難しい)」という苦悩を共通して抱えている。
ジャスミンは「女は国王になれない」「意見を持つ女など必要とされていない」「美しいかどうかが問題だ」「十分恵まれているのに何を望む?」という呪いを周囲からかけられ続ける。
国のため、民のためを願い、為政の座を望もうにも、望む権利を剥奪されて鳥籠に閉じ込められる。美しくさえずるだけのカナリアでいろと周囲は言う。それに毅然としたノーを突きつける姿勢が彼女の美しさの根源である。実際、彼女は作中でも相手のこと(特に男性)をよく見ており、「私をジャムや宝石で買えるとでも?」「結局お父様に媚を売りたいのね」というセリフにも彼女の信念が滲んでいる。クレバーな皮肉も多い。
なにより武器を持たない彼女が唯一駆使できるものは、彼女の勤勉さに裏打ちされた「言葉」の力である。臣下を善の道へ進ませた演説は、ルース・ベイダー・ギンズバーグ氏、ミシェル・オバマ氏、ジャシンダ・アーダーン氏などを思い起こさせる。
ではなぜアラジンなのか?その理由は明朗で、彼は作中で唯一、彼女のスマートさ=聡明さを賞賛しているのだ。そしてそんな彼女に惹かれている。いい国王になりたいと言うジャスミンに素晴らしいねと言うアラジン。あなたもそう思う?と聞く彼女への返答が秀逸だ。
「僕の意見が必要?」
これには思わず立ち上がって拍手をしそうだった。彼女が願うことに対して、誰からの承認も必要ない。(そもそも彼女が女でなければ聞かなかっただろう)そう言ってくれる相手だからこそ、ジャスミンはアラジンを受け入れたのだと思う。この姿勢こそ、彼が作中で謳われる「ダイヤの原石」足り得る所以なのだ。
そんな彼自身がこの良さに全く気づいていないのも面映い。大切なものはすぐそばにあるのに。だからこそ、ここから転落していく(自滅していく)流れは辛い。しかし正直彼が調子に乗りきってジーニーと仲違いし、反省するまでの尺が短過ぎて一瞬気でも失ったかと疑った。閑話休題。最後、佳境を迎えてからハッピーエンドまでの伏線の拾い方も心憎い。
余談になるが、アラジンが王子のフリをして国王と王女に謁見する際のしどろもどろさ(献上する品々に対する語彙の少なさ、過剰な遜りと尊敬語の重ね方)の描写に、現代における貧富の格差の表現が、正しい知識に対してアクセスできるかどうか=情報量の格差とされているのが印象的だった。ジャムに固執するアラジンかわいいね。
この映画を見て育つ少年少女のことを思うと心が軽くなる。君は何にでもなれる。望みさえすれば。明日からの世界は昨日よりも少しだけ素晴らしいもののような気がする。A Whole New World……
グレイテストショーマン感想。
私の魂が浮かばれる感想に出会った。
そしてどうか一年越しにこの感想を書く私の臆病さを笑ってくれ、詰ってくれ。。絶賛の渦の中に晒されるのがしんど過ぎて、仲のいい友人達に話すことしかできなかった絶望の話を聞いて欲しい。
2018年、世界は何も変わらないし、いつでもお前の足は玄関マットだからマジョリティ様に踏んでいただけよ!ああ、なんて美しい世界だろう!と突きつけられて、絶望と怒りに苛まれたあの日のことを忘れない。
ラジオから流される絶賛の声、見てきた知人からの上気した声が辛くて悲しくて仕方がなかった。
そもそも某アイドルグループプロデューサーが絶賛!と謳われたコピーに違和感を感じた時点で私は気づくべきだった。この映画がそういう人向けであることに。
この世界のマジョリティが気持ちよく鑑賞できるように作られた成功譚の映画だった。
最高のキャストに最高の音楽。そこに対しては異論はない。音楽は疎い私でも素敵に聞こえたし、映像も美しかったと思う。逆に脚本がダメなだけで、こんなにも人は絶望できるものかと驚いた。途中から、お粗末でもいいお涙頂戴エピソードであってくれと何度祈ったことか。
2018年脚本を一からやり直してくれアワード堂々の受賞です。おめでとうございます!!!
プロモーションで見た「This is me」のオーディション動画に胸を打たれ、公開日を心待ちにし、大きめのハンドタオルを握りしめて劇場に臨んだあの日。それを湿らせたのは、皮肉にも「This is me」の曲が始まった瞬間だった。
彼らをどん底に突き落し、尊厳を切り刻むのは、よりにもよってバーナム自身である。彼らを仲間として表舞台に立たせた張本人が上流社会に目がくらみ、自身の団員の存在を羞恥しパーティの会場から締め出す。それにショックを受けた彼らは自身を奮い立たせて最高のパフォーマンスを発揮する。
こんなに醜悪なシーンで、こんなにも素晴らしい曲をかけないでくれ……。胸が張り裂けそうなくらい悲しくて悔しくて涙が出てきた。
彼らにバーナムやフィリップのように、さめざめと悲しむことは許されていない。
なぜならば彼らはマジョリティである彼らの言葉で奮起し、笑い、手を差し伸べるための装置でしかないからだ。ペットを飼って「こんなに言うことを聞かないなんて思わなかった」という人と同じくらい軽薄で浅はかな考えがにじみ出ていてしんどい。かつて(もしくは今なお)女は男にとっての褒賞であり、聖母であり、奴隷であるという言説となんら変わらない。
この映画は、マイノリティは“人間”ではないじゃん?と当たり前のような顔をして笑っているのだ。
なぜマイノリティであるというだけで蔑まれ、尊厳を踏み躙られても、力強く現実に立ち向かわねばならないのか。なぜマイノリティだけが、清く正しく生きねばならないのか。なぜマイノリティは蔑み踏みつけてきた相手までもを赦し、共に生きねばならないのか。
破天荒な夫に翻弄される妻、まわりに疎まれる子どもたち、それを感知することなく商品に夢中になる夫。結局憎みきれずに元の鞘に納まる描写も頭をかきむしりたくなるシーンの1つである。不協和音の稚拙さもさることながら、当人達が納得して選択するものでなければ、それは社会からの“圧力”にしか見えない。“真っ当”であれという呪い、“愛”という致死性の毒。
愛があれば乗り越えられるなど詭弁だし、その都合のいい愛はバーナムにとってのものでしかない。彼女を切りつけた「君にはわからない!」の何倍も彼女を切りつけたことに気づかないバーナムの鈍感さはマジョリティの傲慢そのものだ。
クズがクズであることが問題なのではない。クズが行うことがマジョリティであるがゆえに看過され、あたかも美談のように語られることが問題なのだ。
ステレオタイプを強要するような、差別の構造を容認するような世界は糞食らえだと、多くの人が語ってきたではないか。少しずつ良くしようと必死で戦ってきた人も、戦う人もいる。それなのにまだこの価値観が素晴らしいと刷り込み直す気か。断固として拒否する。
なぜこのストーリー……なぜこの展開でオッケーを出した……脚本、お前のことだぞ。絶対に許さない。
続編の話を聞くだけで心が濁るので、うっかりやらかしてしまいましたで蓋をして永久に開けることなく忘れさせて欲しい。ただそれだけを強く祈る。
ミスト感想。
救いのない話をお前にしてやろう。と言われてから観たかった。とてもしんどい、しんどいんですけど、もうこんなに人を描ける監督に畏敬の念しかない。しかしもうこの映画は2回と観たくない。胸が押し潰されそう。
全てが悪い方向に化学反応を起こしたらこうなるのでは?と思うくらい、人と人とのやり取りがどんどんトラブルを連れてくる。思いやりという潤滑油のないコミュニケーションが、いかに軋轢を生むかをまざまざと見せつけられる。相手の思想信条を慮ることは高度なコミュニケーション技能なのかもしれないし、余裕がなくなると人は人でいられないのかもしれない。
神を狂信する女性がもたらす混沌と熱狂が、恐ろしくて恐ろしくて、ずっと震えながら見ていた。異常な状況下での独断と偏見は容易に救済に成り得る。みな縋り付く先が欲しいからだ。
軍の研究が原因だ!お前のせいだ!生贄だ!と祭り上げられる軍人の青年に向けられる憎悪に声を失う。彼を取り囲む人達にとって、彼はすでに人間ではないのだ。腹を刺した瞬間の熱狂、店の扉の外へ締め出した優越、化け物に食べられた瞬間の僅かな罪悪と多分な達成感。人間の悪いところを圧縮されている。しんどい。
脱出しようと行動する主人公たちと、真っ向から対立する暴徒にも近い彼女たちで、小さな戦争の様相。刃物を持って襲いかかってくる他者との乱闘に響く一発の銃声。彼女が倒れ血溜まりが広がる。そこでポツリと零された「……人殺しだ」の一言に背筋が粟立つ。あの青年を殺したのは誰だ。
大義名分さえあれば、人は簡単に人を殺してしまうのかもしれない。他者の死はいつでも遠い対岸の火事だ。それはずっと隣にあるにも関わらず。
あのメガネをかけた店員さんが、最初からとても冷静で他者に対して寛容だったのはその能力によるところが大きい。その気になればここの人たちを迷いなく撃ち殺せるというのは、あの状況下ですごいアドバンテージだと思う。ある種の自己肯定感ともイコールというか。明確な戦闘能力は嘘をつかない。
最後のシーン、あの数分で絶望を連れてこられて思わず目を覆った。しんどい。実にしんどい。
私は4人を殺した彼を責める言葉を持たないし、彼を責められない。結果としてそうなってしまっただけで。強いていうならば、状況を切り拓こうとする勇敢さだろうか。……ただただ、運が悪かったのだと思う。私は視聴者としてメタ的に観てるからこそ、彼の選択に天を仰ぎそうになるけれど、あの状況下なら私も彼と同じ選択をした気がする。
地獄に堕ちろと吐き捨てて霧の中に出て行った女性の眼差しが静かで鮮烈な断罪だった。自分の力で暗黒を切り開こうとした彼は、世界にとって傲慢なイカロスだったのかもしれない。
ブラックホークダウン感想。
化け物みたいな戦争映画だった。
描写の緻密さに息を呑むし、痛みと人物描写が破格。恐ろしい速度でこちらへ向かってくる緊迫に食い千切られるかと思った。理不尽と不条理、残酷さを前にして、人が動く理由のシンプルさに胸が詰まる。
仲間が負傷した瞬間すぐさま救助に向かう姿に、彼らは厳しい訓練を受けてきた兵士であることがよくわかる。指揮系統の遵守が生存率を上げることを知っている集団の強さを先に示されることで、状況が暗転していくことへの不安感がひたひたと迫ってくる。背筋に嫌な汗が流れる。銃火器を大量に持つ民兵との戦いは、なし崩しのように泥沼化していく。
衛兵が必死で生かそうともがくシーン、衛生面も薬も何もかもが足りない中で、ただただ「生きろ」と手を尽くす。痛みに跳ねる身体を全員が抑え、「あと少しだ」「もうすぐくる」「その言葉は自分で言えよ」と代わる代わる声をかけ続ける。誰も諦めない、諦めてはならない。そのタフさが彼らに地獄を見せる。
死んだ兵士達は、官民共にその場に打ち崩れる。五体満足ではないその姿が呻く。仕方ない、生きている方が大事だと目を瞑りたくなる。これは戦争なのだと考えることを頭が拒否する。
その度に「誰も残すな、全員連れて帰れ」と、幾度となく繰り返される言葉に涙が出そうになる。彼らは肉塊ではなく、確かに人間なのだ。それを誰よりも知っている司令官の姿に頭が下がる。上に立つ人間に必要なのは、吐き棄てられる下の者の痛みをどれだけ拾えるかだと思う。それを違いなく示す一挙一動は、信頼を寄せられる人の有り様を見せてくれる。
社会の根本的なところを突き詰めていくと、全て人の営みに帰結していく。兵士達が溺れるくらい死んだ場所をこれからも人は歩いていくし、子供たちは瓦礫の山で遊ぶ。日常と非日常は切り離されることなく地続きで、あの日の惨劇も過ぎてしまえば、過去と括られる。
それでもあの日を忘れまいとすることに意味も意義もあると信じたい。それは戦場で亡くした命への弔いであり、自身の生の肯定に他ならない。遠ざかるほど事実は薄れるけれど、近過ぎれば焼かれてしまうのではないかとさえ思う。信じたい気持ちさえもが痛い。
戦闘の最中に「“もし”」と苦悩を滲ませる仲間に対し、「ここで考えるな、終わった後に嫌というほど時間がある」と言った彼の目は、恐ろしく凪いではいなかっただろうか。その経験があったかどうかなどは、些細なことかもしれない。頭を撃ち抜きたくなるような夜があったかもしれない。それでもどうか生きることを諦めないで欲しいと、身勝手なことを願わずにはいられなかった。
「英雄になりたい訳じゃない、結果的にそうなるだけで」
こんなにしんどい台詞が他にあるのか……。銃創だらけの顔で、かつての友の棺の前で独白する彼は、いつか自分もこうなるかもしれないことを承知の上で、再び戦場へ戻るのだ。
虚栄心で戦えるかよ、そんなことで戦場へ戻れるかよ。ここでしか生きられない訳ではなく、生きるためにあの場所へ行くしかない人達の多さに言葉を失くす。
“負傷者”と“死亡者”という言葉に漂白されて、被害に対する意識が遠くなる。戦場という名の対岸の火事は、明るい光にしか見えない。ともすれば希望と名付けてしまいそうなほど。一行の報告書として我々の元に届くまでに、一体何人の人々が大切な人を喪ったのだろう。
私の世界と遠からず地続きであることを、緩慢に忘れてしまうことが恐ろしい。
戦争映画を見るたびに、それを起こす人々はペン先しか動かさないのに、その決定を止めることのできない人達が塵芥のように人生を硝煙と砲弾の嵐へ突き落とされる事実に胸が潰れそうになる……。
だからこそこういう映画が必要とされるのだろうけど……なんて……なんて不毛なことをしているんだ……。
先日公開されたウィンストンチャーチル(原題:ダークアワー)を観た時に、民衆議員共々戦う意志を固め、熱狂したシーンで寒気がしたことを思い出した。
犠牲は常に蓋をされて日の目を見ないからこそ、犠牲なのだろう。誇りのために死ぬことに、未だうまく頷けずにいる。
グリーンマイル感想。
人が他者に向ける感情は全て平等に暴力になり得る、ということを一貫して描いてくれていて、大変穏やかな気持ちで見終えた作品。フランク・ダラボン監督の人を見つめる目線の静謐さと、一切の容赦がない苛烈さがとても好き。曖昧に捏ねられた薄っぺらな愛だの絆だのの求肥がない分、恐ろしく優しく感じてしまう。
真実が誰もにとって良いものか、嘘が他者を救うのか。
人類において永遠の命題でもあるこのテーマを、非常に淡々と見せていく手腕に畏敬の念しかない。結論はごくごくシンプルで、“相手による”ということ。
例え話だが、色んな感情や思惑を寿司のように羅列されて、さあどうぞ召し上がれ、と見せられている感じ。海老はおいしいものだけれど甲殻類アレルギーの人にとっては猛毒だし、パクチーも食べられる人を選ぶ。けれどそれを偽ることなく提示されることで、選択権をこちらに与えてくれている。その表現の仕方に非常に高い社会性を感じる。
人が人と相互間でやり取りする感情に一律の正解などなくて、そこに生じる関係や感情によって左右される。当たり前のことのように思うけれど、これは本当に難しい。
愛してるの一言でさえ、誰かの首を刎ねることもある。それに気づかない人から降り注ぐ言葉の怖さを感じたことを、どうやって伝えたらいいのだろう。相手の中にない文脈の話をすることが、途方もない困難のように思えてしまう。
ポールをはじめとするグリーンマイルの職員は、他者に対して節度ある思いやりと愛を持つ、いわゆる“普通”の人々として描写される。そこに社会的上層部にコネを持つパーシーが鼻持ちならない人としてやってくる。囚人ならば何を言ってもいい、自分は守られている、という認識から、非常にわかりやすい差別意識を他者へと向ける。倫理観の欠如というよりも、何を言っても自分が糾弾されることもなく、立場が危うくなることもないことを知った上での発言と行動であることが胸糞が悪い。
“奇跡”を起こす男との対面、そして彼と過ごすうちに変化する看守たちの心中。やり取りされるコーンブレッドは、手のひらの上で崩れてしまう愛のようだった。
いつも誰かが見た気がして、感じた気がして、過去形でしか正確に捉えることができない感情の最たるものだと思う。
「あなたたちは良い人だ」と言われたことに対して、全員が曖昧に頷くような素振りをして目を伏せるところに、彼らの善性が描かれていて心憎い。彼らの想像のような善性などこの世にありはしない(あまりにも無垢過ぎて)だろうに、そうでなければ善とは言えないと思っている彼らは確かに良い人なのだと思う。
無実の彼を殺したくないと悩む看守たちに向かって、彼が言った「親切をしたと答えなさい」という言葉はキリスト教圏の言葉だなぁと一種の隔たりを感じた。想像してもきっと足りない、文化に根差した言葉だ。
このシーンはポールにとって、二度目の洗礼だったのではないかと思っている。奇跡の瞬間。
彼はここで分けられた時の長さに苦悩していくのだろうけど、その眼差しはシンと静かで凪いでいるようでもある。大きな諦念と自身の持つ罪悪の意識。贖罪のための長い生だとしたら、神様はとても意地が悪い。
彼にとってのグリーンマイルは果てなく遠いものだろうけれど、どうかその道行に安寧があらんことを願う。